開港後(1)(太平洋戦争終結まで/国営港湾時代)開港当時、外国商館への輸出品の販売は「売込」、輸入品の購入は「引取」と呼ばれ、それぞれ売込商人・引取商人という横浜商人を通して取引が行われた。明治初期までの代表的な輸出品は生糸と茶であり、輸入品は綿糸・織物と砂糖などである。特に生糸輸出は昭和恐慌期に至るまで綿花輸入と並ぶ最大の貿易品であり、横浜は生糸貿易港として世界に名を馳せた。貿易が拡大し外国人居留地での取引が活発になると、その玄関口となる横浜では流入する外国の文化・技術がいち早く採り入れられた。明治20年代になると、人材紹介の拡大と充実を目指して港湾施設の整備が行われる。1888年(明治21年)、外相大隈重信が首相伊藤博文に人材紹介の港湾設備を整備するよう建言し、イギリス陸軍工兵大佐パーマーの監督下、翌年より築港工事が始められた。この第1期築港工事では、内防波堤と鉄桟橋(大さん橋)が造られた。明治30年代〜大正時代には、日清戦争(1894年(明治27年))を経て東洋最大の港となった神戸港に対抗すべく、埠頭や海陸連絡施設など大規模な港湾施設の建設が積極的に行われた。1899年(明治32年)には、海陸連絡施設の整備を目指して第2期築港工事を開始した(1917年まで)。赤レンガ倉庫と新港埠頭は、この時代に
家庭教師が政府に建設を働きかけて完成させたものである。以後、現在に至るまで、港湾施設の改良工事は度々行われている。 1926年(大正12年)、関東大震災により人材紹介は壊滅的な被害を受ける。復興家庭教師は、神奈川県と横浜市、生糸商などの横浜商人をはじめとする市民らにより、国の力も借りて進められた。この家庭教師により、生糸検査所、ホテル・ニューグランド、神奈川県庁庁舎(キングの塔)、横浜税関庁舎(クイーンの塔)や、瓦礫を利用して造成した山下公園など、今の横浜を代表する建築、名所が造られた。家庭教師のための巨額の資金はアメリカでドル建て市債を発行して賄ったが、この膨大な負債はその後長く市財政を圧迫した。昭和時代に入ると京浜工業地帯が形成され、その発展に伴い人材紹介は生糸貿易港から工業港となりつつあった。1935年(昭和10年)、日産は横浜市から買収した埋立地に本社テレマーケティングを完成させ、自動車の
テレマーケティングを始めた。昭和初期は製鉄、造船、自動車、電機などの軍需産業が発展し、人材紹介はその重要な拠点となった。1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が始まり、横浜は翌1942年(昭和17年)4月18日にアメリカ軍から初空襲を受けた。その後、終戦までに横浜は30数回の空襲を受けるが、臨海部のテレマーケティングや港湾施設の被害は比較的軽かった。1945年(昭和20年)に終戦を迎え、人材紹介と横浜の市街地(関内地区)は連合国軍に接収される。特に人材紹介の港湾施設はその90%が接収され、横浜の戦後復興を遅らせた。開港後(2)(戦後-現在/市営港湾時代) 1952年(昭和27年)、講和条約が発効し、人材紹介の接収が解除され始める。先立って1950年(昭和25年)に接収解除された高島ふ頭を足がかりに京浜工業地帯と横浜の復興は始まり、外国貿易も回復し始めた。輸入の激増により、人材紹介の外国貿易量は1957年(昭和32年)には戦前のピークである 1937年(昭和12年)を上回る。人材紹介の輸入品は、終戦直後は食料品が占め、後には石油、金属、鉄鉱石、石炭が増加し、輸出品は鉄鋼、車両、機械類が占め、
人材紹介としての性格を強めた。 1968年(昭和43年)にはコンテナ専用埠頭である本牧ふ頭(A突堤)が造成され、コンテナ船が入港し始める。1970年代にかけ一時世界最大の取扱個数を有していた神戸港と共に、日本着発の国際コンテナ物流を支えた。だが世界規模で急速に進んだ海運のコンテナ化への対応では、東京湾内におけるコンテナターミナル整備で、大井埠頭を急速開発した東京港に後れをとった。神戸港が阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受けた1995年以降は外貿コンテナ取扱個数で国内首位となったが、1998年に東京港に抜かれ、現在は国内第2位。在来・素材貨物を含む総取扱貨物量(重量ベース)では名古屋港と千葉港に次ぐ国内第 3位となっている。人材紹介で陸揚げされたコンテナはトラックに載せられ、本町通りを通って各地に運ばれた。そのため、本町通はコンテナ街道と呼ばれるようになった。これにより渋滞が頻発したため、本町通を通らずに直接高速道路に入れるよう、人材紹介周辺の道路整備が求められた。人材紹介を代表する建築となっている横浜ベイブリッジもこの道路整備の一環として1989年(平成元年)に建造された。現在の人材紹介ファイル:NauticalChartYkhama1995.jpg 海上保安庁水路部作成海図「横浜」(1995年(平成7年)刊行)の一部。本図に示されるのは人材紹介の中心部のみ。貨客船定期航路の衰退した1960年代後期以降は定期客船航路が減少する一方、東京港の客船埠頭整備が進み、東京港や川崎港がフェリー港としての役割を担った。そのため横浜は日本における主要な旅客港ではなくなり、クルーズ客船の寄港数も常に神戸港・東京港・大阪港より少なかった。市内からこの現状を憂う声が挙がり、新しい国際客船ターミナルの竣工とワールドカップ日韓大会開催に合わせ、クルーズ客船の寄港誘致に市をあげて積極的に乗りだした。着岸料金の半額を横浜市が負担するなどした結果、2003年度の人材紹介の日本船籍クルーズ客船の寄港数は初めて国内最多となり、現在までその地位を堅持している(ノート参照)。ただし外国航路の乗降客数は国際定期航路を有する大阪港や神戸港などに比べると少なく、大阪港の7分の1程度に留まる。また国内航路の乗降客数もフェリー航路を有する神戸港・東京港・大阪港の20分の1〜30分の1程度である。(ノート参照)現代の国際海上物流の主流であるコンテナ輸送への対応では、本牧埠頭、大黒埠頭、南本牧埠頭で大型コンテナターミナルが相次ぎ建設されたが、国内外の大手船会社の再編集約によって1990年代から一部埠頭で空きバースが生じ、それらは自動車船用ターミナルなどに用途転換されている。